神職とは使命である 幻想を捨てて真心一筋に真実への道を歩むべし
(月刊レコンキスタ、令和2年7月号)
「身分制度」が神社本庁を自壊させた?
神職養成の課程を経て必要な学識を身につけ、神社本庁から階位を授与されることで神職になる資格が身に付く。そして神社に奉職し、出仕や権禰宜を拝命すると同時に神職の身分が与えられるという。最初の四級から最上位の特級に至る六階級であるが、階位と経験に応じて上がってゆくシステムである。この神職の身分制度こそ、自壊していく神社本庁を象徴しているのかもしれない。というのは、その運用が完全にお手盛りであり、自壊させている張本人が、田中総長を筆頭とする「特級」や「一級」などの身分の高い神職たちだからだ。
神職は使命でありモノではない。ならば、一級だの特級だのという神職だけの等級付けにどんな意味があるのか。しかし神社本庁は、設立時より神職の身分を定めてきた。その理由は、戦前の神職は国家の官吏としてその身分を処遇されていたが、戦後の神職は、その身分が公的に処遇される術を失ったことにあるという。それで神社本庁がその代替措置として、身分制度を設けたということだ。しかし、こうした制度が機能するのは、公正、適切に運用された上での話である。
宇佐神宮、富岡八幡宮などの宮司人事を巡る騒動が、何れも宮司就任の条件となる神職身分の制度を神社本庁が悪用し、助け舟を出すのではなくイチャモンをつけることで修復不可能となっていった経緯を見れば一目瞭然だ。そしてイチャモンとは反対に、田中-打田体制に従順な神職等は、優先的に神社界のヒエラルキーを駆け上がる構造になっていると、まじめな神職は言葉少なに話すそうだ。
完全な年功序列なら、まだ納得できるかもしれない。しかし今の神社界では、神社本庁や神社庁の役員などの覚えめでたい神職が優遇されることが当たり前になっているという。これはどんな組織にもあることだが、これが常態化すると組織は衰退する。なぜなら、これでは優秀な人材が育つはずもないからだ。周りを子飼いやイエスマンで固めた組織は、トップに正確な情報が集まらなくなる。それでも組織を維持するためには、トップは真実でなく幻想を振り撒くしかない。身分制度のお手盛り運用など、幻想を生み出す最たるものだろう。どこかの独裁国家と一緒ではないか。