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神社本庁の現状を憂ひつつ、「神社新報」ならびに読者に訴へる
(神社新報、令和2年8月24日号)

神社本庁の現状を憂ひつつ、「神社新報」ならびに読者に訴へる
神社界唯一の新聞「神社新報」に、瀬戸神社 佐野和史宮司が、編集部を叱咤激励する投稿を寄せ、8月24日号の紙面に投稿が掲載された。

「かうした問題を扱ふ記事が新報紙上に掲載されたならば、その情報に基づき、読者の意見を是非、投稿していただきたい。」「小生のこの投書が、読者諸兄の賛否いずれにしても投稿を促し、相互に議論して神社界の実のある『輿論』が構成できればありがたく、ここに提案、要望するものである。」という佐野宮司の勇気ある呼びかけに心を打たれた読者も少なくないはずだ。

ところが、「神社新報」編集部は、佐野宮司の投稿をそのまま掲載せず、事前検閲により一部 ”都合の悪い” 記述を削除して掲載したことが判明した。

もとより、紙面の編集に関する権限は、編集部にあることは明白であり、編集部が不都合・不適切な表現と判断した場合にそれを掲載するかどうかの判断は編集部に委ねられている。よって、ここで投稿への「検閲」それ自体の是非を論ずるつもりはない。

問題は、編集部が、いかなる記述をもって「不都合・不適切」と判断し、当該記述が読者の目に触れることを忌避したかである。

果たして「神社新報」は、「今、本庁で何が起こってゐるかをもっと記事にして発信してほしい。本庁当局が好ましくないとすることであっても、編集部が、今後の神社界の正しい姿のためには必要だと判断すれば、おもねることなく記事として発信する編集態度を明瞭にされることを要望する。」という佐野宮司の訴えに応える気があるのか?

それを検証するために、佐野宮司の投稿原文と、神社新報紙上に掲載された投稿記事とを見比べ、編集部がいったい誰に忖度し、何を慮って当行の改竄を行ったのかを検証してみた。

【※黄色マーカー部分が、紙面掲載時に、投稿原文から削除された記述である。】






神社新報掲載投稿記事と佐野和史宮司投稿原文を対比する

神社本庁の現状を憂ひつつ、「神社新報」ならびに読者に訴へる(神社新報R2.8.24)

【↑神社新報 令和2年8月24日号より抜粋】


【佐野和史宮司投稿原文】(※アンダーラインは記事掲載時に削除された部分)

神社本庁の現状を憂ひつつ、「神社新報」ならびに読者に訴へる

神奈川・瀬戸神社宮司 佐 野 和 史

・この投稿が「神社新報」紙面に掲載されるかどうか、不安を覚えつつ執筆させていただく。誌面にてこの文章をご覧いただけたら、賛否を問はず、これに続いて是非積極的に投稿くだされ、紙面にて論議を重ねさせていただきたい。

・まずは「神社本庁」の現状についてであるが、委細をここに書き連ねることは省略させていただきたいが、直近の問題として岩手の神社庁長であり神社本庁理事でもあった藤原君の死亡と、金刀比羅宮の離脱とがある。その前提としての職舎売却にからむ問題と、職員の免職事案、それに続く訴訟の問題もある。

これらの課題を抱へる神社本庁の現況は、もう三十年近く以前のこととはなるが、職員として小生が勤務してゐたころの本庁とはうって変はった、異常な組織になってしまったと感じてゐる。

・本庁評議員にも選任させていただいてるし、教学委員(顧問)にも委嘱されてきたので、それらの会議等で質問したり意見発表させていただくことで、すこしでもよりよい本庁の姿が改善されればと思ひながら、それらの役職を勤めさせていただいてきたが、藤原君の訃報を聞き、もっと効果的な行動が必要であると実感し、筆を執らせていただく。

(あへて「藤原君」といふ表記をさせていただくが、本庁で机をならべあ、BS伊勢大会では半ズボンの制服で汗を流したことを思ひ出しての呼びかけであると理解いただきたい。)

繰り返すが、今回は本庁がどう変質し、その問題点はどこかの指摘はあとまはしにさせていただき、この投稿の趣旨が受け入れられ、本紙面にて公論が自由に論ぜられる状況を作っていただいて、その中で逐次、問題点を整理しつつ、論じてゆきたいと考へてゐる。

とにかく、現在の本庁の動き方は憂慮に耐へないものがあり、放置すれば崩壊してゆく危険性があるといふ認識を小生はもってゐる。

・さて、一方で、小生のこの居ても立ってもゐられぬ「憂慮」が、全国の神職諸兄がどれほど共有いただけてゐるかとなると、少々不安がある。本庁を信頼しつつ、奉務神社の社務に邁進してゐるといふ多くの善良なる神職諸兄にとって、本庁のあり方云々や施策の詳細などは喫緊の課題ではないかもしれない。

・しかし、ここで「神社新報」に対する要望である。今、本庁で何が起こってゐるかをもっと記事にして発信してほしい。本庁当局が好ましくないとすることであっても、編集部が、今後の神社界の正しい姿のためには必要だと判断すれば、おもねることなく記事として発信する編集態度を明瞭にされることを要望する。

・そもそも、本庁発足まもなく、本庁の教化部の中に新聞発行の部署が作られたものを、宮川宗德、葦津珍彦らはこれを本庁事務局から独立した株式会社として「神社新報社」を発足させた。そこには、単なる本庁のスポークスマンないし御用新聞ではなく、ジャーナリズムとしての正確な情報を全国の神社人に提供すべきであるとの自負・自覚があったものと聞いてゐる。

・GHQの検閲のなかで、今東京で議論されてゐることを、津々浦々の神社関係者に届けることで、全国の個々の神社が思ひを共有し、戦後の神道指令をくぐり抜け、そして今日の神社が存在してゐるといふ歴史は忘れてはなるまい。

・しかるに、今東京で起きてゐる諸問題は、「神社新報」には記事がなく、週刊誌やネット情報誌に頼ることとなる状態が久しいのではないだらうか。これで「神社新報」の設立以来の社の目的は果たされてゐるのだらうか。

・もちろん人事の機微に関はるものなど記事にできない部分もあらう。しかし、たとへば今回の金刀比羅宮問題に関して言へば、金刀比羅宮の見解と、これに対する本庁当局の見解に相違があるのだらうから、両論併記でよいからできるだけ詳細な報道をしてほしい。

・そこで、読者の皆さんにも要望したい。かうした問題を扱ふ記事が新報紙上に掲載されたならば、その情報に基づき、読者の意見を是非、投稿していただきたい。小生が本庁の現状を憂ひてゐると度々指摘してゐるが、さうした状況を作り出されたのは、特定のグループの考へ方が本庁の執行部の方針となり、神社界の公論が軽視されてきたことにあるとも考へてゐる。

本庁設立の前史として「神社教案」「神社連盟案」があったことはよく知られてゐる。葦津は「神社教案」を管長が教義を決裁する権限をもつとするのは、八百萬の神々をそれぞれ奉斎する神社の伝統には不適切であるとしてこれを強く否定した。しかし、昨今の本庁の執行部の動きにはこれに類するものとなってゐると小生には見える。

それを許してゐるのは、神社界の輿論(世論)が不明確だからである。戦前の「皇国時報」などには、さまざまな投書が掲載され、それが当時の神社輿論を形成してゐた。

・フェイスブックやツイッターも現在では世論をはかるひとつの手段かもしれないが、神社界の内実のある輿論は、新報紙上での議論である。

・小生のこの投書が、読者諸兄の賛否いずれにしても投稿を促し、相互に議論して神社界の実のある「輿論」が構成できればありがたく、ここに提案、要望するものである。