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神社本庁評議員会で鷹司統理は神道界の覚醒を呼びかけ-田中執行部は統理挨拶を否定する暴挙に!
(月刊「レコンキスタ」令和6年7月1日号)

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「小池氏の飽くなき権力への執着は、神社本庁後牛耳る田中-打田両氏と瓜二つである。そのうえ、利権には目ざとくとも中身はスカスカなところまで一緒だ。ただ、田中-打田氏の場合は、疑惑が発覚してから八年が経過し、その間に学歴詐称にも引けを取らないあらな疑惑が噴出し、関連が濃厚な数々の陰湿な事件も起きたことから、その神通力は風前の灯火である。それでも権力の座に居座るためには、もはや恥も外聞も必要ない。その象徴が、523日、24日に開かれた神社本庁評議員会であった。そのトンデモ発言の一部始終を紹介する



  まず冒頭、鷹司統理は評議員に向けて、凡そ次のように挨拶された。



「現在係争中の二人の総長をめぐる問題は、本来、神社本庁自らが解決すべき問題であり、それを司法機関に委ねることは、結果に拘わらず大きな禍根となる。芦原理事を総長に指名したのは、司法判断の制約を受けない宗教団体の代表である統理としての判断である。評議員各位は、神社本庁の議決機関としての役割を踏まえ、議論を尽くしていただきたい。」



  評議員会に神社本庁の正常化を託した、鷹司統理の切実な挨拶から、評議員会は始まった。初日は予算審議が中心で、議事のうえでは大きな動きはなかったようだが、最終日に大分県の橋本評議員が、伊勢神宮の式年遷宮に向け、神社界が一つになるためにも、評議員会として統理の総長指名を尊重する決議を求める緊急動議を提案した。



平気でうそを並べ立てる田中一派の本領発揮はここからであった。



  まず、口火を切ったのが宮崎県の伊藤議員だった。統理の挨拶にあった「統理の総長指名は、司法の制約を受けない宗教団体の代表者である統理の判断」というのは、神社本庁の公式見解であるかと質問。これに荒井総務部長は、統理の挨拶は神社本庁庁規に定める「統理のすべての行為は、総長の補佐を得て行はれるものとし、その責任は、役員会が負ふ」の制約にあり、本庁の公式見解ではなく、挨拶自体、正式な手続きを経ていないので、規則上は、統理挨拶ではない、と答弁した。総長選任問題が始まって以来、最大のトンデモ発言であろう。



  ここでの「統理のすべての行為」や「総長の補佐」とは、宗教法人としての権能が及ぶ範囲に限られたものを指しており、宗教団体の議決機関である評議員会の統理挨拶は、明らかにその範疇を越えたものだ。



  その後、賛同者が続いて橋本議員の動議は成立したが、田中一派の議員から、動議に反対する意見が相次いだ。中身は金太郎飴みたいに同じもので、最高裁で係争中の案件について、評議員会で議論する必要はないとの意見である。一見もっともらしく聞こえるが、田中一派の主張は、最初から法理を曲解したこじつけである。それは、最高裁の判断はあくまでも、憲法及び宗教法人法の解釈に基づく判断であり、最高裁の判断が出ても、総長問題は解決しないからだ。



  というのは、仮に最高裁が芦原氏の上告を棄却したとしても、田中氏は総長の地位に「なほ在任」していることが確定するだけなのだ。そもそも原判決は、役員会で決議し、統理が指名することで正式に総長が選任されるとしたものであり、統理の総長指名の権限を否定していない。鷹司統理が挨拶で述べた通り、統理の権限には、司法判断の制約を受けない聖なるものがあるからだ。故に鷹司統理は、評議員会が総長選任問題について議論を尽くすことを期待したものと理解される。統理としての本文を尽くされるその姿に、心ある評議員は覚醒したに違いない。故に危機感を抱いた田中執行部側は、統理挨拶を否定する暴挙を敢えてしたのであろう。高裁判決から一年が経過し、最高裁が原判決を見直す可能性が日々高まりつつあることも、気が気ではないであろうが。



  祭主的に緊急動議は、議長が賛否両論別れているとして、採決しないまま強引に幕引きを図ったが、賛否が分かれるからこそ、議論を尽くして採決をするのが、議会の役割である。今回の評議員会は後世に、神社本庁暗黒時代の最後の評議員会として記録されることだろう。」