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荒れた五月定例評議員会
(「神社新報」令和6年6月3日号より)

神社新報令和6年月23日_ページ_1
「冒頭に鷹司尚武統理が挨拶。宗教法人神社本庁の代表役員を担う総長の地位をめぐって2件の裁判が係争中であることに触れ、神社本庁が『自らの責任において徹底的に議論して解決すべき問題を司法機関に丸投げしてしまう』ことは『神社本庁の信用を益々失墜させる』『将来に大きな禍根を残す』『責任放棄』との考えを披瀝した。その上で、予て総長には芦原高穂理事を指名していることを改めて提示。『統理としての私の判断は司法判断の制約を受けない、宗教団体の代表者としての者であると認識しており、私が統理の任にある限り変わることはありません』と述べた。」

荒井総務部長は、統理の挨拶は、総務課で立案し役員決裁を経たものでなければならないとのトンデモナイ主張を展開!

神社新報令和6年月23日_ページ_2

「伊藤俊郁評議員(宮崎・今山八幡宮宮司)は、統理挨拶の内容に関して質問。『統理としての判断と司法の判断との兼ね合いについて、神社本庁の公式見解であるかを問うた。これに対して荒井総務部長は、庁規第40条第5項に『統理のすべての行為は、総長の補佐を得て行われるもの壽、その責任は、役員会が負う』という統理無答責に条文があることを改めて提示。評議員会の統理挨拶は「全ての行為」に含まれると説明した。さらに通常は総務課で立案し役員の決裁を経るという手続きを踏むが、統理が決裁されたものと全く別の内容となっており、とても驚いたことを述懐。その上で、統理の判断は司法判断の制約を受けないとの認識は、本庁の公式見解ではないと回答した。
伊藤評議員は、百合丘職舎売却問題における議論の中で鷹司統理が『司法尾判断を重要視する』旨の意向を示しており、挨拶文とは相反することから『違和感を覚えた』と述懐。起案・決裁を経た挨拶文が、「どこかですり替えられているのではないか」と危機感を顕わにした。」
(中略)
「鷹司統理は、挨拶文のすり替えを否定したうえで、司法判断の尊さにも触れつつ、法治国家故最低限の基準に照らして裁判所の判断をまず聴き、それを踏まえて評議員会で議論・判断しなければならない旨を語った。さらに、この2日間は短かったが本音も出たとの認識を提示。『意見の相違に対してどうあるべきかということを、もっと突っ込んで議論なさった方が嬉しい』との思いを述べた。」

統理の挨拶は、統理の挨拶である。
国会の議場で、大臣が、官僚の起案した答弁と異なる発言をしたときに、官僚が「それは我が省の公式見解ではない」などと言えばとんでもないことになる。

神社本庁の一職員でしかない荒井総務部長は、いつから、統理の発言が正しいかどうか、本庁の公式見解であるかどうかを決められる権限を持ったのだろうか?
不遜にもほどがある!


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